見慣れたはずの街並みも、暮れる頃には顔が変わる。

だけど静けさを湛えたその街は、かつて何よりも愛したものだった。

これからもきっとこの街を愛していくけれど。

君と見るのは、これが最後だから。















眩暈もただのガラクタであれば 13 ― Bye, I heart beautiful orchestra fantasia… ―














ついさっき、追い返されて家についたのに。
泣きそうになっていたオレのところに、その電話は来た。

冷たい、沈んだ声で、呼ばれた。

久しぶりだね、という声は何日も焦がれた栄口の声で。
知らない番号からかかってきて、ただ本能的に受けただけだったのに。
ただ、その声に、安堵できない何かを感じた。
たくさん聞きたいことがあった、順序立て出来ないくらい、たくさん。
オレが名前を呼ぶ前に、栄口はオレを呼んだ。

水谷、久しぶり。あのね、話したいことがあるんだけど。

冷たい声。
それは、本当を見せてくれる前のような。
平静を偽るだけの、押し殺した痛々しい色で。
凍らせることを望まれていたときに、戻ったような声。
どうして。
あんなにも暖かくなっていたのに、何があったかなんて考えるまでもない。
これだけの間、閉じ込められていた。
それが何に繋がるかなんて、オレだってわかる。
オレが何か言い出す前に、栄口はただ静かに、学校で会おう、と言った。

その奥に。

泣き出しそうな想いがあったこと、それがわかってしまったこと。
それが栄口にはわかっただろうか。
何を考えているか分からないのは、前のオレ。

もうそこまで、馬鹿じゃない。

ついさっき、お姉さんに会ったばっかりだ。
それから性急に進んでいるって考えれば、察しがつく。
だから阿部は帰れって言ったんだろうか、そこまでは分からないけど。
あれほどまでに落ち窪んでしまった中にいて、そういう結論が出ないことが考えられないわけじゃない。

…と言っても、ここまで全部オレの考えかって言ったら違うわけで。
もしかして、の話で。
田島と少し話をして、辿り着いたところだった。





―――今さっき顔見たんだぞ、栄口にとって水谷が大事なら。

人質に取るくらい、造作もねぇと思うんだけど。





田島にしては珍しく、本気で怒っている様子だった。
あそこで何も出来なかったことに対してか。
無理やり帰らされたことに関してか。
それとも、そういうやり口を想像してしまう、自分に対してか。
それは分からないけれど、田島とそんな話をした後では、そういう考えになっても仕方ない。
事実、栄口の声音で確信した。
思いのほかしっかりとした、芯の通った声。
何を伝えるべきか迷わないために、震えをかみ殺したような。
冷たさをあえて孕んで、遠ざけるために嘘をつく。

もう放ってはおけない、たぶんこれが、最後のチャンス。

きっと栄口には、これで最後といわれるだろう。
そのつもりで来るに決まってる。
オレが、ちゃんとしないと。
今度こそ本当に失ってしまう、一番大事な人を。

―――学校で待ってる。

ここで悩んでいても、時間の無駄だ。
学校なら最悪田島を呼んだっていい、止める手段ならいくらでも思いつく。
オレだって、守りたい人のために、たくさんたくさん考えた。
それが通じなくても、意味がないといわれても、全力で。
空白ともいえる2週間を忘れない、何も出来ずに、嘆くだけだった。

ここで絶対に、終わらせてみせる。

悲しみも、苦しみも。
たとえオレに出来ることが少なくても、足掻く為に。


学校行って来る、親に残すように叫んで、家を飛び出した。
そんなにまだ時間は経ってない、オレのほうが早いか、同じくらいか。
距離はそんなに変わらないと思う、近道とかしても、あんまり変わらない。
念のため田島に連絡しておこうかと考えて、やめた。
下手をすると、栄口は来ないかもしれない。
割と強情なことは知ってる、



オレを助けると決めたら、障害になるものは自分でさえ許さない。



それが、栄口。
自分の考えにがんじがらめになって、答えが一つしか見えなくなってしまった。
それも最後にする、絶対。
意識だけは高く、後悔は後で。
自転車に飛び乗って、走りだす。

志は高く、思いは強く。































さすがに、学校の照明はほとんど落ちている。
オレ達野球部が今日は練習なくて、そうなるとこの時間は真っ暗だ。
校門も見事にしまっている、自転車はここまで。
寒空を裂いて走ったせいか、酷く寒いけれど、仕方ない。
門の壁に自転車を立てて、校門を見上げた。
背の丈はオレと同じくらいか、ちょっと高いかくらい?
手を伸ばせば頭の上、よじ登るには相当体力がいるかもしれない。
ただ迷ってはいられないので、乗せた掌に力を込める。
懸垂の要領で体を持ち上げて、―――以外や以外、結構普通に乗り上がれた。
日頃の練習の成果がこんなところに出てくるとは、この調子でエラーも減ればいいんだけど。
そんな邪念は払って、校門を越える。
なるべく静かに着地、なんてカッコいいことは出来ないから、音は少し立ってしまった。
残ってる先生とかがいたら面倒だけど、このくらいの音で見つかりはしないだろう。

そういえば、学校のどこ?
考えるまでもないことだと思って放置していたけれど、栄口は何処で待つつもりだろう。
たぶんグラウンドじゃないかとは思うんだけど。
これで間違ってでもいたら、栄口を相当待たしてしまうことになる。
間違っていたらいけないから、急ごう。
ぴりぴりと痛む足先を無視して、走りだした。

静かすぎる程の夜を走る。
こんな夜を、栄口ならどう表現するだろう。
教えてくれた古典の言葉。
暗夜に霜が降るかの如く、だったっけ、どういう用法してたかは覚えてないけど。
とてもとても静かな夜っていう表現で、栄口に聞いて初めて知った。
そんな夜もあった、ただ静かに流れる空気に身を任せて。

だけど今は、その静けさとはまた違う。

何かしら棘を含んだ風は、面影すら吹き飛ばしていく。
荒む前に、早く。
この刺々しさに、惑わされる前に。
風は非力なオレを笑い続ける、剥き出しの敵意で追いやるから。
そんなの全部受けてやるから、今は栄口に会いたい。



栄口に、会いたい。

アスファルトの道を走って抜けて、グラウンドを目指す。
毎日日が暮れても、金属が硬球を打つ音が鳴りやまないグラウンド。
明かりがなければ、表情は豹変していた。
冷たい風が流れていくだけのそこ。
他の部が使っている時は、外野まで広く使うことが出来なくて、内野だけで繰り返し練習する毎日。
オレはずっとセカンドだったけど、栄口とポジションがかぶっちゃって。
外野経験があったから、オレの方がレフトに行ったわけだけど。
栄口の後ろ姿を見て、一生懸命野球に打ち込む姿を見て。



大好きになったことを、オレは今もちゃんと覚えている。



そのセカンドベースの上に、栄口はいた。
背を向けて、冷たく靡く風の中で屹立していた。
見るからに薄着で、そこにいる。
声をかけることすらためらわれるような一枚絵。
触れていなければ、一瞬で消えてしまうような。

二週間ぶりの姿は、以前にも増して小さく見えた。













「栄口、…。」















静かに口を開けば、肩を鳴らすでもなく、栄口は静かに振り返った。
まだ遠目すぎて、怪我をしてるかだとか、そういうのが分からない。
だけど栄口は、確かにその位置で、オレに向けて微笑んだ。
忘れられない、大事な笑顔がそこにある。
目尻が潤むのを拭って、二塁の方へと駆け寄った。
力任せに地面を蹴って、腕をのばせば、栄口は少しだけ腕を伸ばす。
その手を引いて、肩に触れて、ただ、ぎゅ、と抱きしめた。
凍える気温の中に立っていたせいか、何が悪いのか、栄口の体はすごく冷たい。
オレの体温も全部持って行っていいから、どうか栄口があったかくなるように。
栄口の手も、すごすごとオレの背に回される。
直に触れればわかるほどの服の薄さに、痛々しさが顕著になって胸が痛む。
二週間ぶりの、栄口。
少しだけ体を離して、じ、と表情を見つめる。
一瞬数度見ただけではわからない、だけど傷がある。
服に隠れて見えないけれど、引いた時に上がった声は、その下の傷の在り処まで、きちんと物語ってくれた。
二週間もの間、どれだけ辛いことをされたんだろう、想像を絶するものがあったんじゃないか、そればかりで。
囁かで、だけどまるでオーケストラのような華やかさで、毎日が過ぎた。
それが如何に幻想だったかを物語る、栄口の小さな笑顔に、胸がずきずきと痛む。






「久しぶり、水谷…。」

「…たくさん怪我、してる…。」

「はは…やっぱわかっちゃうか…さすがだなぁ…。」

「栄口のことなら、何でもわかるよ…!」





胸の痛みに、語気が跳ね上がる。
壊れたギターの狂ったチューニングで、栄口は笑う。
かつて、全部を隠すために浮かべたあの笑顔で。

ちら、と、視界の端に白く軽い残像。
















「なら、わかるだろ、何しに来たかなんてさ。」














思っていた以上にはっきりとした声で、栄口は言った。
わかってる、わかってるから止めに来た。
意思を含んで見つめれば、一度目を逸らした後、栄口は俯く。

再度顔を上げたとき、その眼の端には確かに雫が溜まっていたのだけど。



















「―――この世界から水谷が消えて、オレの大事な音が消えてしまうより。





オレがいなくなってしまうことのほうが、ずっとずっといい。」















ずしりと重い言葉に、オレの声は詰まる。
オレの腕の中でそうとはっきり告げて、栄口の手はオレの頬に触れる。
冷たい、だけど奥に温もりを灯したその指で、オレの唇に合わせて、栄口はぼろぼろと涙をこぼす。
視界にちらつく白い影は、それを隠すことも出来ないで。
気付けばオレも、どんどんどんどん零れだす自分の涙を、拭うことすら出来なかった。

本当は、泣き出すつもりなんてなかったんだと思う。
力ずくの言葉でねじ伏せて、消えてしまうつもりだったんだ。
だけど、それが出来なくて栄口は泣いている。
結晶が降り始めた、その隙間に隠すように。
















「ホントは…!一緒にいたい、けど…!」

「…さかえぐち…っ…。」

「だけどオレ!水谷がいなくなるのなんてホントに嫌だ…!!」

「栄口…っ!」





























「オレのせいで水谷が消えてしまうなら、オレが消えてしまったほうがよっぽどいい!!」





























離した体が引かれて、栄口はオレの首筋に顔を埋めて、抑えた声で涙を零す。

嘘でも、オレが嫌いになったから、とか。
わかっていて、家族のためだ、とか。
そういう言葉で諭されたら、オレはそれを全否定できたのに。
否定して、栄口の手を力いっぱい引くことが出来たのに。
オレの腕の中で泣き続ける栄口は、嘘なんて一つも付かない。
心を溶かした、あの時のままで。

嘘一つない、本当の目でオレを見る。
ただ失いたくない、その一心で。
口が回るとか、そんな邪心一つもない。
苦しくて苦しくて、目一杯抱きしめて、息が詰まるほど、視界が霞むほど。
泣いて、泣いて。
自分が無力すぎることを思い知る。
そんな気持ちがあって、どうやってオレが栄口を救える?

栄口は本当にただ、オレを助けたい本心を見せてくれたのに。

どうしてオレなんだよ、そんな言葉が飛び出しかけるほど、悔しくて。
栄口の気持ちを変えられるかもしれない、そんなの安易だった。
自分だって、栄口に愛されていたいのに。
それが分かってて、きっと栄口は本心で言ってる。
オレを助けるために、オレが本当に、好きだから。
気持ちが痛くて、オレも涙は止まらない。
今体を離してしまえば、栄口は二度とオレの前には現れない。
胸の痛みを隠すように、失いたくない一心で抱きしめてみても、

この手の上を、ひらひら抜けていく雪のように。















「―――もう、行くから。」

「…やだ…!」

「水谷、もう、離して…。」

「いやだ…!!」









「これ以上いたら、オレ、帰れなくなっちゃうから…。」












そう言って、オレの胸を軽く押す。
とん、と、本当に軽く。
オレの行動を促す、柔らかな仕草に、駄々をこねるようにしがみついていることしか、出来ない。
離してしまえば、栄口は消えてしまう。
でも、それすら諭すように、栄口はオレの背をゆるゆると撫でて、







「オレがいなくなって、水谷は…。」

「…なに…?」

「悲しい、って思ってくれる…?」

「思うよ…!!栄口がいなくなったら悲しいし、すごく辛い…!!」















「なら…オレにはそれで十分だよ…。」















そんな顔で、無理に笑ってみせないで。
泣きながら笑ったって、辛いだけなのに。
そうやって自分を追い詰めないで。



お願いだから。















「行かないでよ…!!」

「…水谷…。」

「オレなんかどうなったっていいのに…!!」

「みずたに、そんなこと…。」









「どうして栄口がいなくならないといけないんだよ…!!」















いなくなるという言葉が、どこまで曖昧なこと。
確信的に言い切れるものは何もなくても、でも。
腕を離せば消えてしまう、二度と、栄口には会えない。
言い切れる要素は何もない、だけどもう絶対に、会うことは出来ない。
人目見れても、きっとその時にはもう、別人になっているから。

栄口は、消えてしまう。

それを、許容出切るほどオレは出来た人間じゃない。
駄々をこねても、意味がないって分かってる。
それでも、そうしていれば、気が変わるんじゃないかなんて浅はかで。
















届けばいいのに、神様はいつも残酷だけど。
オレから栄口をとらないで、ねぇ、―――栄口の、お母さん。
どうして大事なわが子を、失う道を選ばせようとするんだ。
背を撫でる手は、どこまでも温かくて、この満ちた時間が、永遠ならいいのに。



手は背から離れ、胸板を強く押す。
ほんの少し、さっきよりも強く。
しがみつこうとしても、腕は阻まれる。



口をあけようとして、唇に阻まれる。
少しだけかさついた、柔らかな唇が、ほんの一瞬触れて。
緩んだ腕の隙間を、栄口は抜けていく。
風は容赦なく荒んで、そして、距離が開く。
ほんの数歩の距離は、絶望を見せる幻惑で、降り続く雪は視界を奪っていった。
粉雪じゃ涙は隠せない。

最後に、栄口は綺麗に笑った。

整然としていた音は乱れて、オレの足は止まる。










「水谷は、オレがいなくても大丈夫、だから。」

「……っ…。」
















「もしも、…もしもオレが、助けて、って、言ったら―――。」















だけど、その時にはもう、曲は止まっていて。
視界が霞んで、もう、その時には栄口はいなくなっている。



さよなら、の残滓だけを残して。



膝が崩れて、地面に伏せても。
悔しさは何処までも積もり、オレの拳はただ、地面に小さな痕を残すだけだった―――。




























































本当は、もっと綺麗に狂った笑顔で告げるつもりだった。
追いつけないほど突き放して、それでさよならしようと思った。
だけど水谷の必死な目は、せっかく積み上げた理性を崩していく。

本当は。

嘘で塗り固めて、オレのことなんて大嫌いになるようなこと、言おうと思っていたのに。
だけど。
嘘をついたら、水谷に諭されていたと、思う。
それだけ水谷の眼は、決意に満ちていた。
本当はその手に、腕に、声に、すべてを任せてしまえたら、よかったのに。

だけど水谷のいない世界で、どうやって生きていけばいいかなんてもう、分からないから。



逃げるようにして去った学校を背に、家へ向けて足を引きずる。
何度も何度も振り返りそうになって、懸命に足を進めて。
あの目に全て、預けられたら。
ずっとずっと水谷といられたら、オレはそれ以上何も望まないのに。

最後。

そんな言葉が胸を痛める、本当は、最後に笑った顔が見たかった。
オレの心を溶かす、大好きな笑顔。
純真無垢で、邪を受け付けない、そんな笑顔を。
最後にくれたら、思い残すことなんて、なかったのになぁ。
そんなことを思ったところで、今更どうしようもない。

オレは、本当に大事なものだけ失わずにすんだ。
本当に本当に愛しい人を、奪われずにすんだ。
そしたらもう、オレ自身のことなんて、どうなったっていいから。





だから。

さようなら、みずたに。







二人でいることを忘れてしまえば、寂しさなんてもう、感じない。















NEXT











今回は、思ったほど長くなりませんでした。
カットした部分が多かったというか。
歌詞をトレスしたら、「別の花」を用意しないといけなかったので。
「別の花」用意したけど、あまり“花”としての役割をはたしてくれない道を進みすぎるので。
次回に回そうと思って、今話から視点が水谷のみに戻ります。