手を伸ばせば。
たったそれだけだった。
ほんの数秒でも構わない。
そんな小さな行為が。
平坦な道に繋がっていたのに。

張り上げる声、落ちる意識。
ねぇ、大丈夫だから。

さよならなんて、言わないで。












眩暈もただのガラクタであれば 12 ― From me to you, it is to me from you. ―












呼ぶ声がする。
昏んだ世界の向こうで、オレの名前を呼んでいる。
誰だろう?
途切れた意識が断面を繋いで、



沈んだ意識が浮上する。


















なんだろう。
誰だろう、誰が名前を。

朦朧としていた意識が、不意に形を成していく。

一切の光が取り払われた、冷たい部屋。
閉め切られたカーテン、重たく閉じる扉。

父と母のための部屋で、倒れ込んでいた体。
重たさに身を捩れば、あちこちから軋みが上がる。
横腹を捻れば、水谷との数日で薄れていたはずの傷口が、悲鳴を上げていた。
何で、なんて、考える必要もない。

浅はかだった。

程度を軽んじていたからか、それとも自分自身への過信か。
どれをとっても、結局はここに辿りつく。

ぎち、と固められたカーテン。
隙間を覆い尽くすように、歪に張り巡らされたガムテープ。
カーテンごと窓への道を断つ、無造作で、それでいて、狂いに満ちていて。
ドアも、ノブがもがれていた。
ごっそりと抜け落ち、無残な様を見せている。
母との記憶を含んだ部屋の様相など、どうでもいいのか。
ただ今があれば、それでいいのか。
現実を見つめようとして見れなくなった、哀れにもすぎる冒涜が。

足首は無残だった。
今まで自分で引いてきた線の上。
腹の傷と同じように閉じかけていたその上に、新しく新しく。
どんどんどんどん刻まれている、深い傷。
今まで自分が引いてきたそこの傷よりも、よっぽど深く、残虐に。
少しでも力を入れようとすれば、それだけで激しく痛む。
まるで水谷に、見透かされてしまったあの時のような、痛烈な。



違う。



あの時の痛みと、一緒になんて、出来るか。
水谷が全部受け止めてくれた、あの痛みとは違う。
ほんの数日だったのに、どこか安らいでいた自分が。
痛みの意味も、理由も、捨ててしまえそうだったのに。
そんな、優しさが。

根こそぎ奪い取っていくような、酷い幻惑。
オレの手のひらには何一つ残らない。





度々意識は飛び、度々記憶さえも飛ばしてしまいそうになる。
時間の定義さえ曖昧になる空間で、何度となく蹂躙された。
刃に、指に、言葉に、心が。
身体に何をされても辛いとは思わないのに。
今までなら、心ごと潰されようとも、辛いと思う器官すら、なくなっていた。
水谷といることで、思い出してしまった自分の心の在り処。

もう。
何日経ったんだろう。
どれくらいの時間が経ったんだろう。

水谷に会えない時間が、どれくらい募った?



みずたににあいたい。



その言葉を取り消せと、何度となく殴られ、だけど血に混ぜて何度も叫んだ。
だけど、今もまだ届かない。
どれだけ泣いても叫んでも、檻の中で響き、消えていくだけだった。
後悔し、叫んでみても。
冷たい部屋の中で、反響していくだけ。
伸ばしたくても、伸ばすための腕は、使えない。
酷く擦って、焼けたように赤くなった手首。
乱暴な枷は、自由なんて一つも、くれない。



忘れろ、と。
自分のことも、水谷のことも。
何度も何度も囁かれ、拒絶して、なのに。
ほんの一瞬でも、受け入れてしまいそうになったら。
全部、持っていかれてしまいそう。
オレという存在が、消えうせてしまいそうで。

そうなったら、水谷はなんて思うだろう。
オレがいなくなったら、水谷は、泣いてしまうかもしれない。
泣かなくても、家族を責めるかもしれない。
覆らない事象を前にして、叫ぶかもしれない。
悲しませたく、ないな、と思っても。
声が一つも届かないから、ここで一人、鉄錆の味に顔を歪ませながら祈るしか、ないのだけど。

陽が暮れているのか昼間なのかすらも判別がつかない空間。
もう夜だろうか、それともまだ朝だろうか。
朝ならいい、父は仕事に、姉も弟も、学校に行く。
そうすれば、一人だけの時間になれば、ずっと水谷のことを考えていられる。
誰かがいれば、絶対に考えさせてくれない、そんな余裕もくれない。

だけど。

とん、とん。
階段を昇る音がする、静かな音、姉さん。
あぁ、昼間はずっと意識がなかったのか。
なんて勿体ないことをしてしまったんだろう。
この状況を終わらせるために、常に思案することが最優先なのに。





「―――勇人、ただいま。」





扉越しにかけられる声、動けないの分かってて、戸を開ける前に声をかける。
どうせ動けもしないのに、わざわざ確認なんてとって。
逃げられたら困るのは、オレじゃなくて、母さんなのに。





「…お帰り…入ったら…?」

「うん、話があって。」

「…話…?」





向こう側からノブが押される。
木の軋みを少し鳴らして、姉の白い顔が現れた。
外に出ている時は、驚くほど豹変しているんだろうな。
今は暗い顔で、後ろ手に扉を閉めているけれど。
家の病は外に悟られないんだろう、こうして、闇に飲まれても。





「…お友達が来てたわよ、部活の人って言ってたわ。」

「…ぇ…。」






「あなたが呼んでる、水谷くんもいたわよ。」







「水谷が…!?」





姉の目がキリキリと細まる、姉たちにとってはもう、敵も同然なのか。
だけど、さっき、呼ばれたのは幻聴なんかじゃなったんだ。
水谷が、オレを呼んでた。
それだけで、壊れかけていた心が繋がっていくような気がする。





「…勇人が出てったら、家は終わっちゃう、わからないの…?」

「………。」

「お友達来てたけど、帰ってもらったわ。」

「…。」





そうだとは、思ったけど。
会わせてくれるわけがない、今会えたら、二度とここには帰ってこないだろう。
それでも教えてくれたのはどうしてだろう、良心?
それとももっと、残酷な宣告をしたいだけなんだろうか。

ベッドの上でも身を捩れば身体が軋む、姉さんの方に体を向ければ、ベッドサイドのほうまで来ていた。
ゆっくり腰を下ろして、オレと視線を合わせる。
寝転んで首だけを向けるしか出来ないオレからしてみれば、相当威圧感を感じる。
自分の姉なのに、まぁ、否定できないくらい自分も―――。
病んでしまったのは、何が原因なんだろう。
母さんはこんなこと、望んでなかったはずなのに。
見て返せばどこにも傷痕は残っている、あそこで間違えなければと思うことはたくさんあっても。
もう戻れない、ここまで来てしまったから。
自分の肉親だからって、これが犯罪になっていることにすら、考えが及んでいないんだろう。
監禁して自由を奪って、思想すらも奪われている。
この光景を正常な人間が見れば、立派な犯罪だ。
なのに、この家の中にいるだけで、そんなものは消えてしまう。
病んだ空気が、ねこそぎ奪っていくんだろう。



母さんは、きっと嘆いているだろう。
誰よりもきっと、幸せを望んでいた人なのに。





「ねぇ、水谷くんに会いたい?」

「…会いたいって何度も言ってるだろ、叶えてくれるつもりなんてないくせに。」

「―――私たちとどっちが大事?」

「そんなこと、聞く方がおかしいって…どうしてわかってくれないんだよ…。」






比べるべきじゃない。
大事な家族と、天秤にかけるなんて、どうかしている。
だけど守るべき家族は、今は確実に害を成すもの。

水谷の方が大事。
そう言えたら、いっそ一息で楽になれるかもしれない。
曖昧にして答えないでいるから、こんなことになってしまって。

それでも切り捨てることが出来ないのは、母さんの幻想に取りつかれているからなんだろう。
血の繋がりさえなければ赤の他人でも、放っておけないくらいの情があったから。





「―――正直に言っていいよ、ねぇ。」

「………。」

「私たちと水谷くん、どっちが大事。」

「それをオレに言わせて、何がしたいの…?」





会話が繋がらない。
こうして意味のない会話を毎日のように続けて、自分を削っていることがわからないんだろうか。
自暴自棄になって自傷して、悪循環になっているだけなのに。
水谷と触れ合っているうちにようやく理解した自分の心の作り。
この病はいらなかった、間違えさえしなければ悪化することもなく。
なのにオレはそこから抜け出せない、もう間違えてしまっていたから。
だけど、変えていくことは出来るかもしれないと、何度も何度もやってみたけど。

言葉が伝わらない。
現実を拒否するように、未来を拒絶するように。
ただ今だけ至福であればと、そうして自分を追い詰めていく。
欠落を補おうとして欠落していく、なんて哀れな様なんだろう。
救うことが出来なかったのは、間違え続けてしまったオレのせいだけど。





「ねぇ、勇人。教えてよ。」

「何度も言ってるだろ…問いかけ自体が無意味だよ…っ。」

「いいよ、わかってるもの、勇人にしてみれば水谷くんのほうが大事よね。」

「……そうとは、言ってない…。」

「嘘ついてもダメだよ、わかるもの、友達とかそういう括りでないことも。」

「………。」

「いいよね勇人は、逃げるところが出来て。」

「…何が言いたいんだよ…。」

「私たちには勇人しかいないよ、そんなことわかってるでしょ。」





言われるまでもない。
今までずっとそうしてきたんだから。
当然の意味を込めて、頷く。
姉さんは満足そうに、だけど暗く暗く、笑った。





「ね、勇人、私の言いたいこと、分かんないかな?」

「…全然。」

「私たちにとって勇人はかけがえのない人だよ。」





それはオレとしてじゃないだろ、口をつく言葉をしまって、次を待つ。
開けかけた唇をかんで姉を見れば、それでも暗く、だけど楽しげに、























「勇人にいてもらうためなら、何でもできると思うな。」








言葉の意味を測りかねて、だけど、背筋が凍る気がした。
嫌な寒気が抜け、だけど姉から目を離すことが出来ない。
楽しげな、だけどその笑顔の後ろに、火が見えるようだった。
暗く明確な、それは、怒り…?

そこまで認識して、ようやくオレは理解した。



この人は今なら、本当に何でもしてしまうかもしれない。
神経の麻痺、常識の欠落。
歪んだ心、壊れた問答。
そしてこの人はさっき、水谷の顔を知ってしまったじゃないか。












「水谷に手を出すつもりかっ…!!」


「ねぇ勇人、そんなに怒らないでよ、ごめんね、だって勇人が大事だから…。」

「そんなの大事とかじゃないだろ!!どうしてそんなことが出来るんだよ!!」

「どうしたの、何でそんなに怒るのかなぁ。」

「…どうしてわかってくれないんだよ…!!」












「どうして、って。大切な人を守るためなら、当然でしょう?」











自分の中で膨れ上がる怒りだとか、そういう感情が爆発直前まで積まれて。
だけど、消える。
ここで爆発出来ないのは、ずっとそうしてきた証。
自分の爆発的な感情は全部押しとどめて、なかったことにする。
諦観。
そうしていれば、せめても楽だから。

抵抗しよう、どうか救おうなんて考え自体が浅はかだった。

そう、もうそんな領域じゃないことを思い出す。
どれだけ願っても思っても、もう二度と届かない。
オレに自由なんて初めからないし、望むことすら全部無駄。
そこにあるのは母の代役で、永遠にそれを強いられて生きていく。
終わりはない。

どうあっても、一つの我儘も、許してはくれないだろう。
高望みだったからだろうか。
初めて、我儘らしい我儘を考えることが出来た、初めての瞬間だったのに。










だけど、もう終わり。























「―――オレには、姉さんたちのほうが大事だよ。」

「…本当?嘘じゃなくて?」

「嘘なんてつかないよ、大事な家族に、どうして嘘なんてつけるの?」

「…よかった…ね、そしたら水谷くんのことも忘れてくれる?」







「―――うん。もう全部、どうでもいいよ。」








それだけ。
言葉にする瞬間までは、痛くて痛くて仕方なかったのに。
口にした瞬間、本心を理性が固めていく。

水谷を好きだと思った気持ちも。
一緒にいたいと思った、大事な思い出も。

生きたいと思った、最後の我儘も。



全部、全部。

























だから、と。
口を開く。
















「水谷にも部活のみんなにも、もうここに来ないでって言いたいな。」



「え?」





「オレにもう関わらないでって言ってくる、余所見しないで、ずっと家族といるために。」

「勇人…ホントに…?ふふ、嬉しいなぁ…。」















「うん、ホント。だからこれ、少し外してくれない?あと携帯。」











「うん、あ、でも、父さん帰ってきたら…。」





弟と父さんの予定表が、頭の中に勝手に浮かんでくる。
今までは全部把握していないと、拗ねさせでもしたらどうしようもない。
父は今日、出張。
弟は部活の面々と、出てくると言っていた。
静かに聞いていれば、ただ話すだけ話して自己満足。
それが我が愛しの家族たち。
例えばオレの状態など、どうでもいいのだから。



そこにいるのは、母のヨリシロ。












「大丈夫だよ、今日は帰ってこないから。」



「…大丈夫かな、怒られないかな…?」



「大丈夫、オレはちゃんと帰ってくるし、そしたらきっと父さんも喜ぶよ。」



「ホントに?なら外して上げる、でも早く帰ってきてね?」














「うん、すぐに帰ってくるよ。―――どこにも行けないから。」












「待ってるね、晩ご飯作ってるから。」


「うん。」











「今日の晩御飯は、勇人の好きなもの作っておくね。」











ぱら。
時間計算をしうるだけの活力がようやく戻ってきて、そうか、もう一週間も経ってるのか。
それだけ長く縛られていれば、手首はただれてぐずぐずになっている。

酷い傷。

ようやく外れた縄のほうも、赤く黒ずんだオレの血が染みている。
ニコニコと笑いながら縄を外す姉は、もう酷く病んだ笑顔は見せない。



そう、もう大丈夫。
何も心配しなくていい。

オレはオレの我儘も、自分の命さえ、自分のものではないんだから。
























「なんでもいいよ、姉さんの好きなもの作って待っててよ。」






















オレの好きなものなんて、当に忘れてしまっているくせに。



自由になった腕を閉じて、開いて、感覚を取り戻していく。
あちこちが軋むのも気にせずに体を起こせば、重力が苦しい。
オレの携帯は解約されていると言っていた、姉は自分の携帯を差し出す。
ご飯作っておいでよ、と姉を追い出して、水谷の携帯番号を押した。
通話を押すだけというところで、指が止まる。

狂ったように浮かべていた笑顔が、綺麗に崩れていった。
ぼろぼろぼろぼろ、止まることなく零れていく。
泣くのはもう最後。
屑のような腕で涙を拭って、ボタンを押しこんだ。
あとは短い一生を、笑い続けるだけ。

短いコールのあと、ためらうようにして、水谷が出た。
知らない番号にも怖気ないで出たってことは、もしかして分かっていたんだろうか。
そんなこともう、オレには知らなくてもいいこと。
知ってしまえば、もっと重く辛くなってしまうから。












「水谷、久しぶり。あのね、話したいことがあるんだけど。」











精一杯、震えない声で。
告げてしまえば最後、オレはもう、オレとして水谷に接することはないだろうから。

学校で待ってるから。

すぐ行く、という水谷の声に、うん、ありがとう、とだけ返してすぐに切る。
ここで長々と話していてはダメだ。
携帯を放り投げて、未だに零れている涙を払う。



―――いつか。
逃がさないと言ったけど、もう大丈夫。
水谷、ゴメンね。
どうかこんなオレを許さないでいて。

そして、忘れて。



逃がして、あげるから。






例えそれが、誰であろうとも。
自分を、失おうとも。












NEXT





わあ。
なんぞ!
という、稀に見る眩暈短時間更新です。
やった!頑張ってる私!!
ようやく終わりへの兆しが見えたところ。
本当は再会は栄口で書こうかと思ったのですが、急遽水谷サイドに変更。
ページ数とか、心情の問題で。
次も割とすぐにお目見え出来るかも。
でもその間に純雨紅伝が入るかもしれない、調子いいから眩暈先に書きたいなぁ(~_~;)