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* それから、一か月ほど田島は眠り続けた。 奇跡を信じたオレ達は、必ず田島が目覚めることを信じ、ひたすら部活に打ち込んだ。 田島がこの輪に入れなくても、この野球部を絶やすわけにはいかない。 一か月とは早いもので、オレ達は毎日のことになっていた田島の見舞に来ていた。 その日は一日休みで、朝から部屋を占拠して。 今日も目覚めないかもしれない、でも騒いでいたら起きるかもしれない。 輪に混ぜろって、言いだすかもしれない。 そんなとき、田島は目覚めた。 田島の覚醒を一番に気付いたのは栄口で、慌てて全員を呼んだものの、驚いた。 第一声に、全員が息を詰まらせた。 全員が詰め寄ったからだと思っていた、その、怯えきった眼が。 「…だ、だれ…?」 全員の顔を見回して、田島は小さく呟いた。 何をするにも、まずは医者を呼ばないといけない、すぐにオレ達はナースコールをして、並行して田島家に連絡を入れた。 目が覚めたが、様子がおかしい。 田島の母さんがすでにこっちに向かっていたらしく、医者の診療中に、病室に訪れた。 自分の母を見ているはずなのに、田島はやっぱり、怯えた様子を隠さない。 目覚めた喜びよりも、これから医者に告げられる言葉が恐ろしくて、仕方なかった。 診察中は同席するわけにもいかず、病室の外で待っていた。 診察が終わるのが恐ろしい、田島はどうなるのか、なんとなくわかってはいるが、認めたくない。 一月も寝顔ばかりを見つめていて、せっかく目覚めたのに。 もし、この過程が本当なら―――。 診察が終わって、医者が部屋を出ると同時にオレ達は部屋の中に移動した。 診察中に田島は母を母と認識出来たのか、今は懐いているらしい。 だけどオレ達の姿はやはり見慣れないのだろう、目が合うと同時に、田島の表情は怯えたものに変わった。 入っていいものかためらったが、泉が後ろからせっついているので立ち止まるわけにはいかない。 9人全員が入りきったあと、田島の母さんは静かな声で言った。 ―――全生活史健忘。 よくドラマなんかであるような、「ここはどこ?私は誰?」っていうタイプのつまり、 記憶喪失。 心因性が主な発症理由だが、外因でも発症することはある。 発症しないとは言い切れない状態だった、あの高さから頭を打ち付けたんだ。 同じ部活の人よ、と田島にささやいているが、田島は首を振る。 目が迷っている、全然まったく思い出せないんだろう。 全生活史健忘は自分に関することを忘れている状態で、自分に関わりのあった出来事、人間なんかに関して思い出せなくなるっていう。 自分に直接関係ない、たとえばニュースなんかは結構覚えているらしい。 でもどれもらしい、だ。 オレはなったこともないし、なっていた知り合いもいない。 度重なる奇跡の副作用だろうか。 直後は確かに、オレ達のことを覚えていたのに。 話によると、全生活史健忘はひょんなことから少しずつ記憶を取り戻したり、また、完全に記憶を取り戻すことも出来るようだ。 出来ることは出来たとしても、今は何も覚えていない。 ―――それはそれで、いいのかもしれない…。 イヤな記憶は忘却の彼方、一からやり直したほうが、田島のためには―――。 覚えてないからって、絶望する必要はないと思う。 残念なこと、だとしても。 田島の母さんの口から話を聞き、それぞれがかける言葉もなく呆然としている時、オレは田島に違和感を感じた。 言動とかそういうのではなく―――右目に何もない。 「あ、あの、右目、何もしてなくて、いいんスか…?」 状態が落ち着いているから外していてもいいということなんだろうか。 「それが…どうも、見えてるみたいなのよ、目…。」 「!!」 田島の左目を、田島の母さんの手が覆う。 よく見れば、くすんでいた目に光が射していて、その眼は確かに、焦点を結んでいた。 不思議そうな目がきょろきょろと動く。 その場にいる全員を片目で見つめて、オレの目ともしっかり合って。 ―――これを奇跡と呼ばないでなんと言うんだ。 再起不能と言われた目が見えている、落下が原因とか、そんなのあり得ないのに。 次々に起こる奇跡、記憶が欠けてしまったこともあるいは奇跡なのかもしれない。 目が見えるということは、野球だってやろうと思えば出来る。 皮肉といえば、皮肉だ、野球を愛した記憶を持った田島はいない。 ならまた、一から教えたっていいじゃないか。 あとはお願いしますね、と言って田島の母さんは一度家に帰った。 家族に報告もしないといけないし、これからいろいろ大変なんだろう。 オレ達はとにかく田島の警戒心を解こうと思って、必死で話したりしていた。 もともと田島は、人見知りしない性格だ。 ひねた性格になったのは基準となる過去があったからだろう。 初めこそ怖がりはしたが、しばらくしているうちにすぐ慣れてくれた。 記憶がないというよりも、オレの目には退行しているように見えるくらい。 一人ひとりの名前を何度か反芻して、覚えたよ、と嬉しげに笑う。 「じゃああれは、ちゃんと覚えた?」 「ちょ、誰があれだ…!」 「あべ!あべたかや!」 「そうそう、じゃあこっちは?」 「みはしれん!」 「う、ぉ、すごい、ね…!」 無邪気。 陰りを取っ払った田島は、こんな風に笑うのか。 田島の影は、中学の頃には形成されていたという。 少なくとも今はその記憶はない、だから、これが本来の性格なんだろう―――。 「じゃあ、こっちの二人は?」 「いずみ、こうすけ、はない、あずさ!」 合ってる?と首を傾げる、さっき教えたから、そりゃ覚えてるだろうけど。 でも、無性に泣きそうになって、俯いた。 泉のほうも複雑そうで、少し顔をひきつらせたが、苦くも笑ってみせている。 これでよかったのかもしれない、そう思っても、やっぱり切ない。 田島は確かにここにいる、だけどこの田島はオレ達のことを何も知らない。 起きたらたくさん謝ろう、そう思っていたけど、今の田島に謝っても届かない―――。 生きていてくれてよかったとは思う、それでも複雑だ。 田島が全員に懐き始め日が暮れるころ、オレと泉を残して他の奴らは帰路についた。 起きた直後で体力もない田島は、しばらくして唐突に眠りに落ちた。 骨折などの怪我はほとんど完治しているから、あとは体力さえ戻ればすぐに動き回れるだろうに。 半日くらい言葉を交わしただけだが、もともと仲のよかった栄口や三橋には完全に気を許している様子だ。 時々阿部の怒鳴り声を怖がったりはしていたが、個人を怖がっていることはない。 オレと泉にも、懐いてくれているらしい。 拒絶される恐怖心が勝ってどうもうまく接することが出来なかったような気がするが、田島の方から接してくれる場面もあって、それはそれでありがたくて。 泉のほうは難なく田島に触れているし、そういうところはやっぱり強いと再実感したりして。 今まで一月も見てきた寝顔だが、今はどうしたことか新鮮だ。 「…完全に忘れられちまってるんだな、オレ達も。」 案外、普通の声だった。 「逆に、田島にしてみたらよかったのかもしんねぇな…。」 「あぁ、それは思った…ごっそり抜けおちてんなら、思い出さねぇほうが幸せだって…。」 でも、惚れてる側としては、な。 と付け加える泉の気持ちが、今はよくわかる。 すぅ、と寝息を立てる幼い顔が、遠く感じてしまう。 「だけどさ。」 「…?」 「関係ねぇと思うぜ、オレは。」 「…なんで?」 「オレはどんな風になっても田島が好きだよ、覚えてなくても。花井はちげーの?」 ―――そんなことはない。 記憶が欠けてしまったことは悲しいけど、そんなことで失くしてしまう心ではなかった。 気付き、受け入れることが遅くなってしまった分、それはずっと強い気持ちになっている。 泉の問いかけに首を振る。 「じゃあいいんじゃね、オレも花井も田島が好き、そのうちまた、好きになってもらえりゃいいよ。」 大人びた笑顔。 いつまでも待ち続けるなんて、どこからそんな余裕が来るんだろう。 そんな風にすぐ考えられる思考が羨ましい、見習いたい。 オレも、ちゃんと待つ。 まだオレのしてきたことが許されたわけではないけど、ひたすら重さに耐えていても田島は喜ばない。 忘れはしない、だけど、気負わないように。 いつかは笑える時がくる。 いつかは許せる時がくる。 簡単にはあきらめないって、決めた。 失敗も後悔も、呆れかえるほど積み重ねてきた。 今度はせめて諦めないことで、後悔をなくしていこう。 何年でも、何年でも。 容態の安定した田島は、一週間後に退院した。 ちょうど夏休みに入った頃で、田島は部活だけ参加してみることになって。 忘れていても、体は覚えているのか。 初めの頃はぎこちなかった動きも、3年が終わるころには人並みに動けるようになって。 田島を欠いたオレ達はそれでも頑張って、残りの試合は勝ち続けた。 田島の記憶は一向に戻らなかったが、それでもオレ達は一緒にいた。 部活のみんなで、オレと、泉と、3人で。 記憶がない状態で学校生活がちゃんと遅れるかは不安だったが、同じクラスの3人がちゃんとフォローしたおかげで、卒業までちゃんと通い続けることが出来た。 入院していた期間は夏休みと冬休みに補修を設けて、単位はちゃんととった。 田島はやらせればちゃんと勉強出来るようで、試験なんかは問題なさそうだ。 もともとは明るい性格だ、記憶がなくても、クラスに溶け込むことは簡単だったんだろうし、学校生活も問題ない。 田島の目覚めた日から半年くらいしかなかったけど、3年間で一番充実していたと思う。 ようやくまともな運動が出来る頃には受験が始まる、まともな運動は出来なかったけど。 田島はこの状態で受験を受けるのは無理だと言われていて、受験は見送り。 高校は卒業するが、一年は養生に使うことになった。 勉強の片手間に、みんなで集まって、キャッチボールとかして。 田島はずっと記憶のないままだったけど、野球に触れている間はすごく楽しそうだった。 目も見えているし、元気が有り余っている様子で。 オレ達はといえば大学にスポーツ推薦が決まっていたので、心持余裕で。 飽いた時間はずっと田島と泉と、みんなといた。 本当に楽しかった。 それぞれ進路が決まり、それぞれの道を進む。 田島は一年遅くなってしまうけど、絶対後追うからなんて言いだして。 もちろん、卒業してからだってずっと一緒にいるつもりだ。 オレから離れることなんて絶対ない、泉も同じだろう。 卒業までにはオレと泉に一番懐いてくれていたようで、それもホントに嬉しかった。 大学に行くようになって、少し距離を感じてしまうかもしれないけど。 使える時間は全部全部、使うつもりだ――――――。 田島が大学に受かって、それからまた月日は経ち、今やオレと泉は社会人。 一年遅れた田島は今年が卒業をかけた年で、卒論に励んでいる。 ―――忘れた記憶を取り戻したい。 そう言い始めたのは田島自身だった。 記憶がなくても、困ることはなかったはずだ、そう聞いたら、田島はそんなんじゃなくて、と言った。 「なんとなーくなんだけどさ、よくないことがいっぱいあったんじゃねーかって思ってんの。」 そのとおりで、答えられなかったオレと泉が言葉を詰まらせると、田島はただ笑ってこう言った。 「忘れたまんまじゃダメだよ、オレもちゃんと、乗り越えないと。」 5年近く揺らぐことのなかった記憶だ、関連づけられるものは遠ざけていた。 だけど田島がそうだというなら、オレ達は止めたりしない。 きっとその記憶さえも乗り越えて、この小さな背中が教えてくれる。 悲しみの多さも、失敗も後悔も、今は怖くないものだって。 たとえば人に生まれを否定されて、悲しまない人間はいない。 たとえば大好きな人に否定されて、落ち込まない人間はいない。 あの頃、何も知らなかった子供はひたすら後悔を重ねてきたけれど、悲しみに俯き続けてきたけれど。 悲しむ子供と鯨は出会い、夢の果てを目指して歩み続けてきたけれど。 夢は終わり、悪夢は醒める。 新しい夢の始りに、幼子は笑顔で旅立って。 例えば夢の果てに、無邪気な笑顔を浮かべることが難しくなってしまったとしても。 あの頃の幼子に伝えよう、未来は怖がるものではない。 新しい夢を湛える空は、果てしなく青く、広がっていく―――――。 鯨の見た夢 Last Spell U ―Born To Be free― ――君の生まれたこの空は、夢の終わりと無限の果て END あとがき |