生まれ落ちた罪、生き残る罰。
一瞬のトキメキ、永遠の空白。

許しを乞うた鯨を、どうかどうか海へと返してあげてください。
涙のつづる、約束の海ではなく。
送り火に頼る空への道を。










鯨の見た夢 Last Spell T ― サイハテ ―











小さな体は、落下のショックで内器官を酷く痛め、内臓破裂による出血と、全身骨折によるショックの、即死と判定が下りた。



灰色のコンクリートを彩る、赤い赤い血だまりを思い出すたびに、その判定が覆せないことを深く理解していく。
空から見ても、階下を下り、その体を直に見つめ、触れた時も。
外傷はあまりなく、ただ力なく垂れ下がる腕が、虚空を見つめる目が、その涙の痕が、鮮烈すぎて。

―――どうして。

ただただ、そうと考えることしか出来ないでいた。
まだ温かさの残る体をゆすり、何度も何度も、頼むから、起きてくれ、と。
服が血に塗れるのも視界に入れず、ただただオレは。
小さな体を抱きしめて、泣き叫んだ。
徐々に失われていく体温が、その死を何処までもクリアに伝えていく。

酷いことを言ったから。
もうそんなことは、ずっとじゃないか。

お前が死ねなんて、軽薄過ぎることを安易に口走ったから。
何故、なぜそんなことが言えたのか。

喪う恐怖を始めて身近に感じ、その時ようやく気付いた真実を。
ほんの数分前まで、ただ懸命に、謝りたかったのに。
どうして今日という日まで、何もせずのうのうと、彼女の花を見つめていたんだろう。







どうしてオレは、あの日あの時、あの場所で。

田島のことを、嫌いなんて言ってしまったんだ。






彼女こそが幻惑で、田島との行為全てが愛しかったことを、気付けなくて。
奪うように抱いたこと、田島のことこそが幻惑と信じ、罵ったこと。
散々ぶつけた、いわれのない老いた暴言、それでも田島は、オレから離れたりしなかったのに。

挫けることもなくただ屹然と、そこにいたのに。

どれだけの罵声も、どれだけの傷も、田島を遠ざけることは出来なかった。
田島を思ったという事実を受け入れられず、虚実に逃げたことこそが、間違いなのに。

彼女を喪って初めて気付いたことを、今度はもう、もう、手遅れで。





どれくらい田島が好きだった?
ホントはずっと知っていたはずなのに。
遠ざけて。
病んでいく姿も、傷ついている姿も知っていたのに。

4を背負う姿が憎かった?違う。
立ちはだかる壁を、壊したかった?違う。

憎らしい気持ちに置き換えなければいけないと、誰かがささやいていたから。
真実を受け入れてはいけない、倫理に反してはいけない。
そんなことばかりで真実を穢し、蹴落とし、吐き捨てた。





今、冷たくなっていく小さな体を抱いて、落ち日を嘆くしか出来ない。
なぜなぜなぜ、駄々をこねる子供の声はもう、空への道を開くことはなかった。

















血の海に沈む田島を抱え、その温もりが消えていくことを実感した、あの時。
今もまだ辛辣に胸を痛め続ける、死亡判定。

ひたすらに泣き叫ぶ中、オレの腕から容赦なく田島の体を奪った救急隊の人間は、オレごと田島を病院に運んだ。
田島を奪われる恐怖で錯乱したオレは救急車の中で鎮静剤を打たれ、次に目が覚めた時には、水谷と西広がベッドサイドに座っていた。

田島は?

そう聞く気力もなく、ただ問うように二人の顔を見渡す。
西広の目元には薄く涙の痕が残っていた。
水谷は泣くことはなかったんだろう、だけどその表情には暗く、耐えるような目元が、辛そうだった。
二人の鮮明な表情にオレは唇を噛み締め、行き場をなくした悲しみを、噛み砕いた。
無言の空間で、誰も口が開けない中、水谷だけが声を上げた。
死因を淡々と語る水谷の目線は床で、決してこちらを見ようとはしなかった。
西広が目元を擦る、話すべきことを終えた水谷はまた、口を閉じた。
悲しみに行き場はない。

再度口を開いた水谷は、泉が、行方不明だということを告げた。
オレを許さないと罵倒した泉は、誰も見つけられなかったらしい。
病院を抜け出した二人は、部員全員のコールをひたすら無視し続けた。
全員が全員、嫌な胸騒ぎに奔走していた。
田島はまだし、泉ですらコールに応じない。
最悪の結末は幾重にも思いつく、田島がどれだけ笑えていても、その内心は測りきれないもの。
つい今し方まで、阿部と栄口しか、その眼の真実を知らなかったのだ。
間を開けて話す水谷の歯切れの悪い口調に、オレは焦れた。
田島の右目は、あの時の怪我で、瞼の辺りに掠り傷があると聞いただけだ。
オレが聞いたことは人からの受け売りだから、事実ははぐらかされていても仕方ないと思っていた。

だけど、そんなに大したものだったのか…?

最後に見た田島の右目には、包帯があった。
そして、その白い包帯の向こうの眼は―――。






「…見えなく、なってたのか…?」

「………うん、再起不能だったんだって。」







細い声は、確かに今の今まで事実を知らなかったと訴えるようで。
だけど、オレも知らなかった。
阿部と栄口の二人だけ。
二人は確かに勘もいいし、いろいろ立ちまわっていたようで。
オレは何もしていなかった、それどころか、ひたすらに立ち止まって。

濁りきっていた瞳。
機能を失って、暗む眼。
鮮烈な最後を思い出せば、せり上がる嘔吐感に口を抑える。
その死が、哀しみよりも、衝撃的で。
涙は枯れない。

その眼の可能性を潰したのはきっと、いや、間違いなくオレだったんだろうから。

いつか突き飛ばしたとき、酷く頭を打ち付けさせた時もあった。
ついこの前、思い切り蹴り飛ばした時に、花瓶が直撃したのも、見ていた。
それは全部、オレのせい。





「…オレは田島の笑顔しか見たことないんだ…。」

「…?」

「何度もお見舞い、行ったんだよ…?」



つい今まで黙っていた西広が、ぽつりと口を開いた。
俯いていて顔が見えなくて、西広が何を考えているのか、まったくわからない。
口元を抑えつけていた手を離して、足の上に置いた。







「目が見えないって、わかってたはずだった。

泉もそのことわかってたはずなのに、一言も言ってくれなかった。

田島はオレ達がいる間、ずっとずっと笑ってた…!

こうなること、決めてて…!!

……一年の頃からずっとこうするつもりだったんじゃ…って…!」







詰まる言葉。
本当に一年の頃からこうするつもりでいたのか、それを知る術はもうない。
泉なら知っているかも、だけど誰も、泉を探し出すことなんて出来ないから。

田島はもういない、

どこにも、いない。

そこに体はあったとしても、冷たい体は何も語らない。

海の果てへ、空の向こうへ。





消えてしまった。






落ち付いたオレは二人に連れられて、病院を出た。
霊安室では、田島の両親がむせび泣いている。
病院の玄関には、部員と監督とが揃っていて、それぞれがそれぞれ、沈鬱で。

どれだけ大きい人間だったんだろう。

どれだけの人を、惹き込んでいたんだろう。

オレが殺したような、ものなのに。



監督はオレの姿を見るなり小さく笑むと、ただ一度、肩を叩いた。
その眼に涙のあとはない、彼女は、立場として泣くわけにはいかないんだろう。
強く切ない姿、胸がつまる。
諸悪の根源は、オレだ。
贖罪は届かない。
届くわけがない。





その場で解散になって、それぞれ帰路について。
途中まで一緒だった沖とも別れ、一人の道になる。
あの日までは、泉とも多少、話は出来た。
泉との話は確かにぎこちなくて、いつも田島のことを避けて話す。
それでも一人の道よりは、ずっとよかった。



暮れる落ち日。
空の向こうはすでに赤く染まっている。
服や手にこびりついた、田島の生きている証明より、深い赤なんてあるんだろうか。
あの色よりも深く、しかし何処までも、色のない赤。
まるで、灰色。
この夕焼けほどの赤ですらも、田島の鮮烈で色のない赤には、勝てやしない―――。
河川敷の向こうに沈む日、誰もいない、静かな行路。

空に向けて手を伸ばしてみても、閉まった扉の向こうを、覗き見ることはできない。

それはありふれた人生を彩る、あまりにも奇異な恋で。

だけど気付くことさえ出来ていれば、どこまでもたおやかで。

紅く色づく彼への恋をただ、受け入れることさえ、出来ていれば。





君が空へ向かう前に、せめて、愛しさに、さよならを乗せることが出来たんだろうか。

例えそれが口に出来ていたとして、君はオレを、許してくれるだろうか。



力なく垂れ下がる腕、原型こそあれ、潰れてしまったしまった小さな体。
抉ってしまった、それは紅く汚れ死臭に塗れ、嗚咽さえ伴うほどの悲しみだったのに。
だけどその体は愛しくて、決して忘れられない、たおやかな恋だった。

暮れていく空を見上げて、双眸から溢れだす涙を重力に任せて。




慟哭する。


自分の未熟さを。


自分の愚かさを。


贖罪を。


誰に?


キミに。


届かない声。


閉まる扉。


永遠に相容れない。


愚かしくも声を上げ、崩れ落ちる。





せめてせめて、その先がどんなところであるか。
オレに君の行く末を知る術はないけれど。
どうかどうか、君が浅ましい現実を忘れられるような、

サイハテであればいい。
























そして辿りつくまでに、浴びせる罵声の一つでも、考えておいてほしい――――。
















































葬儀は田島の死から一週間を開けて行われた。



あれだけ名を馳せた勇猛なる天才でありながら、その葬儀は、身内と知り合いだけでしめやかに終わった。
田島を知る、本当に少数の人間だけ。
野球部の3年生、他校で田島と競った同級。
本当に仲のよかった面々しか、顔見せることはなかった。
クラスメイトですら、訪れなかった。

葬式前夜の通夜には報道の関係者がチラチラ見えていたが、葬儀とも彼らは追い返されていた。
静かにすすりなく音が響く中、進む葬儀。
慣れない喪服に身を包んだ知り合いが俯いて、黙とうの最中滴り落ちる涙。

通夜にも、葬儀にも、泉の姿は見えなかった。
あれだけ田島を、愛したアイツがいないことは気になったが、参列を無理強いするなど、オレには出来ない。
逆にそれだけ深く愛していたからこそ、死した田島との面会は、苦しいものがある。
事実オレもそうだ。
だけどオレは参加しないわけには、いかない。



するつもりはなかった、だけど放棄していた、主将として。

目の敵のように迫害して、他の面々からしても、最低の主将だっただろう。
上辺だけでしっかりしてみせて、それでもみんなついてきてくれた。



田島も。



どれだけ苦しくても、ちゃんと見なければいけない。
終わりはない、ずっと。
用意されない夜明け。
きっと信じてもくれない。
だけどせめて、最後はその手を、握ってやりたかった。





葬儀が一通り終わり、その体の保存状態の良さを考慮して、顔を見ることを許されたオレ達は驚いた。
昨日の通夜の後、田島の家族が彼を見たときにはなかった、彼の棺の中。
白い花で埋め尽くされた棺の中、その右耳の上に小さく、だけどとても綺麗な、赤い花が一輪差してあったのだ。
その花が一体何の花なのかオレにはわからなくて、全員が動揺し始める中、小さな声がポツリと告げた。



















――――アネモネ。























なんらかの花言葉が込められたに違いない、だけどその花言葉がオレにはわからない。

だけどその声を発した西広が、「泉だ…。」と呟いたから。

そうなんだろう、間違いない、彼は通夜の後、人が消えたところで別れを告げたんだ。

麗しい花は白い肌に映え、例え手向けには冒涜的な色だったとしても、

泉はその花を手向けたことで、彼なりのサイハテを見つけたのだ。




短くも深い葬儀。
改めて田島の顔を見つめて、安らかな寝顔に、胸がチリチリと痛む。
落ちたあの瞬間も、濁った眼は滴を湛えていたが、苦痛は見られなかった。
解放だったんだろう、苦しみからの。
いくら強烈な痛みでも、肉体的な痛みをもう、ものともしないほどの。
解放に至る瞬間が、あまりにも現実離れしていたんだろう―――。




うまれてきてごめん、なんて。




田島のことを考えたら、そういう極論もわからないでは、ない。
自分がそうであるように、その天才性に嫉妬する。
その嫉妬も塊になれば、迫害へと発展するのだ。
生まれ持った能力、田島が悪いわけではないのに。
それでも田島は、それがすべて自分に向けられているものだから、自分が悪いものと受け取るしかなくて。
そんなもの、この天才には届いていないんだと、思っていた。
嫉妬も迫害も、すべて足もとにも及ばない。
いくら妬んでも、そのすべてを蹴落とすほどに。
すべての感情は紙一重だ。
オレがこの感情を間違えていたことも、田島が、不必要に背負ってしまった。
届いていないと、思っていたから。



オレの行いは、その極論を助長させる、最低のものだった。



痛みのない安らかな寝顔。
紅い花のそばに黄色い花を手向けた。
それは泉の手向けた紅い花には到底及ばぬものだったけれども、黄色い花は赤い花とともに、田島の体を色づける。
謝ったって、届かないから。
棺が閉じる瞬間まで、じ、と見つめた。
棺が運び出される。
耐えきれなくなった数人が、ボロボロと涙をこぼしていて。
阿部と栄口は、真意を知っていたからこそ止められなかった辛さ。



オレには泣く権利はない。
あの日好きなだけ慟哭しただろう?
会場を抜けて火葬場へ向かう、棺。
中で安らかに眠り続ける、二度と醒めない夢。
田島の煙はいつかやがて雲になり、雨となる。
そして雨が降り出すころ―――。

骨だけとなった田島の姿を見ることはあたわず、縁者以外の人間はそこで解散。
オレ達野球部3年は、火葬場の煙突を見上げ、立ちつくしていた。
黒く、白く、立ち上る田島の煙。
二度とその笑顔に、触れることの出来ない絶望。
追い込んだ罪悪感。
だけど誰もオレを責めない。
それは優しさではない、諦め。
叱責も何も、届かないものだと、思われてしまっている。
当然だ。



オレは主将として、あまりにも未熟で、酷かった。
たくさん、迷惑もかけただろう。
せめてこのときくらい、やれるだけのことは、したくて。






「――――帰ろう…。」








せめてこの今、出来ること。
最低限の強がりで誤魔化して、堪えて。
小さく頷くみんなの、なけなしの優しさに、小さく胸が痛んだ。



















それは薄くたおやかに色づく、ありふれた日常の中で見つけた恋でした。















































それから3か月の月日が経過していた。
たったの3か月。
二人の有能な部員を失った西浦は、わずか3か月で衰退の一途を辿っていた。
二人だけではない、オレも、辞めた。
田島は地に還り、泉は捜索も空しく今も行方不明のまま。
オレは、こんな状態でそこにいても、ただ迷惑なだけだと思ったから。
水谷や栄口は必死にオレを止めたが、迷惑はかけたくなくて。
田島はこんなことになってしまっても、あの野球部を愛していた。
不必要な重圧で、田島の大事な野球部を戸惑わせたくない。
人数はいる、今年入ったばかりの1年を成長させていけば、いずれは過去の栄華を取り戻すかも知れない。

だけど、田島とともに甲子園の土を踏むことは二度と、ない。




アネモネの花言葉を調べることすら出来ずに、のうのうと過ぎていく時間。
いつになれば終わるのか。
無作為な時間。

待っているだけ。
煙を吸いあげた空は、あの日から一度も雨を降らしていない。
梅雨の時期に入れども一滴の恵みも立たれた世界。
水不足に、夏を不安とさせる声があちこちで上がっている。
だけど解消する術はない。
空は快晴を続け、いつまでも、ただその時が来るのをじっと待っている。

野球部は今日の練習試合も、負けたらしい。
それはもう、上手さの問題ではないようだ。
チームの士気。
衝撃的な死をまだ誰も乗り越えられていないのだろう。

せめて時が来るまでに、光明がさせばいいんだが。
陰る前に、雲を成す前に。



雨が降り始める前に。

















その日オレは、ようやくアネモネの花言葉を調べた。
天気予報は今日も一日晴れることを告げた、朝から続く快晴にまた人々が頭を悩ませる。
ようやく決心のついたオレは、図書館に足を伸ばした。
アネモネの花言葉を調べよう、西広が何故その花を、泉のものと言えたのか。
予想はついている、だけど、この目で確かめることは必要だ。
それもまた、一歩だと思う。

静けさ満ちる図書館で、司書に花言葉を調べたい旨を告げる。
本の名前と棚の位置を聞いて、棚へ向かった。
図鑑のような本が立ち並ぶ中の一冊。




その本は、一つだけ逆さまにされて棚に収まっていた。

名前は司書に聞いたもので間違いない。
埃を被る図鑑達の棚のなかで、真新しい動かした軌跡を残す花言葉の本。
意思を感じて、慌てて本を引いた。
アネモネはすぐ、だけど探す必要は――――ない。

案の定、そのページには一枚の紙切れが挟まれていて、難なくアネモネを見つけた。
ひら、と落ちていく紙切れには目もくれず、解説を探した。



アネモネの花言葉。
花は色によって、それぞれ固有の花言葉にプラスされる言葉がある場合がある。
それそのものの花言葉は、儚い恋、恋の悲しみ、薄れゆく希望、辛抱、可能性、待望、期待。



その項目に続く、清純無垢、無邪気という単語。
紅い赤い花、田島に添えられた。








紅いアネモネは、君を愛す。









西広は、それをわかっていたんだろう。
可憐な紅い花が例えその場にふさわしくなくとも、添えられていた理由を。
泉のサイハテ。
辿りついた、サイハテ。

泉は、煙になる彼を見つめることが出来たんだろうか。
オレはあんなにも近くで見ていることが出来たのに。

ひらりと床に落ちた紙を拾い上げる。
畳まれることもなくただ挟まっていたそれは、―――。


















差し込む光は濁り、視界を撹乱させる。

その空は、曇っていた。




















―――屋上へ。

















紙に記されていた文字は、とても簡潔なものだった。

彼の命が消えた場所で待つ。

それが屋上でないというのなら、はたまた彼が落ち、命を奪ったコンクリートの地面?
だけどアイツはきっと、そんな場所を言いたいんじゃない。
事実を求めているなら、こんな書き方はしない。

ぽつり、ぽつりと降り始める雨。
田島の煙を吸いあげて、乾いた大地を、溶かしていく。
窓の外を徐々に徐々に灰色に染め、色づいた世界を落として。
紙は握り、本は棚に戻して、図書室を出た。
3か月ぶりに見せる雲、喜びに浮き立つ校舎。



傘がない、でも久しぶりの雨だ。
ようやく潤う、夏を越せる。
幻惑の声に、彼の慈悲。
甘やかな笑顔で、豊穣を守るのか。
そうやって、ずっとお前は守る場所に立っているんだな。
いくら奪われても、何度傷ついても。



それでもお前は、笑ってくれるんだな。



日は陰り、仄暗く薄い明りを取り込む、屋上への短い階段。
最上階にあるにも関わらず、停滞した空気は冷たく肌を撫でていく。
冷たいドアのノブに手を掛けて、押しこむ。
暗い光と、雨のにおい。



ぽつぽつ、勢いを増して降り始める雨。
本降りになれば、凄まじい勢いになるだろうか。
雫は冷たい。
その雨を一身に受けるようにして、彼は立っていた。
ちょうど、田島を失った、フェンスの辺りで。
狂っていたのは、誰だったんだろう。
誰一人、歯車を止めることが出来なかった。
翻弄されるがままにお互いを奪い合って、そして結局、一番大事にしていたものを失った。





































「―――――久しぶり、だな。ずいぶん落窪んてんじゃねーの。」

















「…人のこと言えんのかよ、泉…。」

















何が変わったわけでは、ない。
ただ少し髪が伸びただろうか、強いてあげるなら、雰囲気が変わったか。
まとわりつく空気、達観を含んだ表情。
落ち付いてはいる、だけど、定まらない空気。
シニカルに笑む姿は、記憶の彼に定まるけれど、そこには、誰もいないようで。






「来んのが遅ぇよ。いつはせたと思ってんだ?」

「知るか…いつからいたんだ?」

「一週間くらい前かな、よく覚えてねーわ。」






どうせすぐには見ないと思ったから。
葬式の後すぐにはせてもよかったが、直後に調べには来ないと踏んでいたんだろう。
紅いアネモネはやはり、泉の手向けた花だった。
その頃解釈一つ出来なかったオレは、西広の言葉を受け入れるだけしか出来なかったけど。






「どこで、何してたんだ?」













「聞かなくてもわかってんだろ、オレが―――ここに来た理由は一つだ。」


















そうだろう。
そんなことはわかってるさ。








「そのための準備だよ、万が一にも失敗するわけにはいかねぇんだから。」


「…方法か?」







「お前も、出来る限り綺麗なまま会いに行きたいだろ?」









黒く艶やかな。
ずっとその左手に握られていた、黒光りするそれ。
泉は表情なく静かに歩み寄ると、その先端を、ぴたりとオレの心臓に向けた。









「頭に風穴開けたんじゃ、田島が可哀相だからな。」





「………よくそんなもん手に入ったな。」





「オレは田島のためならなんでも出来る、3か月もかかっちまったけど。」





「………。」






「今更、お前にどうこう言われる筋合いはねぇ、もう一度言う。」

























一拍置いたあと、泉は。


















とてもとても悲しげに、微笑んだ。



































「田島はもう、いない…だけど。――――すぐに会わせてやる。」

















「…あぁ、頼む…。」

















自ら断てればよかったのに、それでも目前にしたとたん、足がすくむのは分かっていた。
田島は自分でそれを選んだのに、オレは本当に情けない。

―――今度は、素直になるから。











「田島はちゃんと、迎えてくれっから。」



「…そもそも同じとこに行けるかもわかんねーのに?」


















「馬鹿だなお前、田島に出来ねーことなんてあるかよ。」



































そして、轟音が響いた。



































消えていく視界の、その向こうに。











微笑む姿が、






















そのそばかすは、鼻の頭で―――――――。

























































































…。


………。





事切れたか。
この音を聞きつけて人が来るかもしれないが、まぁ、どうでもいい。
やるだけのことはやった、オレも満足した、やり残したことはない。

なるべく苦痛のないようにしたつもりだ。
こればかりは納得いかないが、酷く痛めようもんなら、田島は嘆くだろう。
貫通する痛みくらいは、堪えてもらう。
死に痛みは付き物だ、それはまた、悼みにもなる。
驚くほど抵抗がなかった。

少しだけやるせない。

抵抗しなかったということは、ここまでの間に理解していたんだろう。



田島が落ちて、直後の田島の顔をまだ覚えている。
冷たい虚空を見つめる濁った眼、近寄ることは出来ず、ずっと空から眺めていた。
泣き叫ぶ花井の声も聞いた。
今頃になって気付いたのか、こうなるまでに気付いていたのか、それはわからない。
だから抵抗もなかった、逝かせてやるんだから、抵抗される筋合いはない。



雨は激しさを増し、流れだした花井の血を、排水口へ連れて行く。
3か月。
長かった。
誰にも何も告げず、ただこの瞬間のために、あらゆる手段を尽くした。
通夜や葬式に参列するわけにはいかない、拘束されてはたまらない。
堂々と手向けるよりは、こっちのほうが性にあっていると思って、アネモネを手向けた。
眠る田島の額にキスをして、二度と動き出さない手に少しだけ、指をからめて。
死人の棺を開けるとは、これ以上冒涜的な行いはないだろう。





知ったことじゃない、オレの神はオレが決める。

運命はただ残酷に、オレの大事な田島を奪ったじゃないか。





愛してる、すぐ行くから。

繰り返して棺を閉めて、翌日、立ち上る煙を遠目に見た。
あの煙は雲を成す。
雨になり、降り注ぐ。






降りてくる。
扉を開けて、待っている。



















―――田島、もうそこまで来てんのか?

















あの日送った煙は、雲に溶け、大地に海に降り注ぐ。
ようやく海に還してやれるな。





3年前。
花井が余計な勘違いをしなければ。
田島が、花井なんて好きにならなければ。
こんな顛末を迎えることはなかったのに。
田島も、優しい記憶ばかり追い求めて、結局伸ばした指は切り裂かれただけなのに。
忘れてしまえばよかったんだ。
陸に上がった、優しい夢なんて。
 


花井、お前はどうして倫理なんて気にしたんだ?
問いかけは無言。
ここにはもう、オレ一人しかいない。



オレもそうだ。



知っていて、田島を奪われることを恐れて。
花井の暴挙は止めれたはずだ、正直になれ、その一言で。
たったその一言で、田島を救えたのに。



結局自分のエゴで、自分を苦しめて。

でも田島も、オレのこと知ってたよなぁ―――?


全部全部、知ってたよなぁ。

田島、お前もただの、はやとちりだったんだよ。

お前は望めば、愛されるだけの要素を持っていたのに。







田島、生まれてきてくれてありがとう。


















田島、

















口の中で反復し、手元のそれを自分の胸元へ。



引き金を引く。






――――いってぇ…。



田島の痛みにすれば、こんなもの。

徐々に徐々に、視界が掠れていく。
動悸が上がる。





息苦しさに握ったそれを床に落とし、狭まる視界を懸命に広げる。
雨の降りしきるそこで、――――白く輝く包帯がなびく。



















弱々しく伸ばした手を、透ける手が掴んだ。

感触のないその手は、だけど確かに、愛しい手で。






言ったろう?






オレの神はサイハテさえも超えていく。

扉を開けて、待っていた。





微笑む姿の愛しさに倒れ込み、


















そこは、サイハテとなった。



































ありふれた才は時に憎悪を生み、ありえもしない悲劇を生む。

ただ、その鯨は航路を間違っただけだったのに。

生まれ落ちたそれこそを、悲劇と嘆いたりして。

伸ばす手はサイハテへ。

奈落すら生み出すその場所は、彼らにとって、最後の海だったのかもしれない。

海に帰った鯨は果たして、幸せだっただろうか。

枯渇していく海を見て、ひたすら燃える陸を見て。





醒めない夢は、鯨の悪夢。

開けない夜は、輪廻する。

―――――――――――そこは海の、サイハテ。



















鯨の見た夢 Last Spell ―サイハテ― ―――その夢の先がどうか、幸せでありますように。

















END


















まずはここまで「鯨の見た夢」を見てくださった皆さま方へ、ありがとうございました。
鯨の見た夢はこのお話が最終話になります。
俗に言う、バッドエンドがこの―サイハテ―でして、とにかく全員が報われない、全員がいなくなってしまう道でした。
お分かりのこととは思いますが、このお話は、Buzyの「鯨」をモチーフにしています。
このお話を書くにあたって、いっそ馬鹿みたいに泣いたりしました。
田島から野球、奪っちゃったから。
あぁ、この話って辛いばっか球児にさせてるなぁ。

全員が全員、違う道を選べたはずなのに、選ぶことが出来ず、結局悲しい最後を迎えてしまうことになった。
このお話の元本で、全体を通してのテーマというか。
夢は覚めずに、輪廻する。
病んでるなぁ、我ながら。

そんな彼らですが、対になる最終話、―Born To Be free―には、救済の道があるようです(他人事か

うわぁ!うまく後書が書けない!

そういえば確かな描写をしてないんですが、泉が持ちだしてきたのはハンドガンだった予定です。
たぶん。
詳しい名称まで定めてもいいけど、3か月で入手不可能だったらおっかしいなーと思って、あえて正しい名称には触れませんでした!すまぬ泉。
二人の最後はちゃんと田島に連れて行かれたらしいのですが、この話、一番悲しいのはやっぱり泉じゃないかな、うん。
一番貧乏くじ引いてると思うし、花井なんか、いいとこどり過ぎてねぇ。

さてさて、長くなってしまいましたが、鯨の見た夢―サイハテ―編はここで幕引きとさせていただきます。

―Born To Be free―でお会いできるか、はたまた違う作品でお会いできるか…。

とにもかくにも、本当にありがとうございました!