募って、募ってしまった。

行くあてもなく蠢くどうしようもない感情は、いつまでも蝕んでいく。

いつまでも、いつまでも。

あぁ、もう、新しい世界を、信じていたのに。





鯨の見た夢 2





そこに新しい世界なんて、決してない。
憂鬱な新学期を迎えてなお、こうして鬱蒼とした顔を見せていられるのは泉の前だけだ。
水谷と栄口も同じクラス、オレと花井の不仲を知られても、オレは二人には寄りかからない。
それはいろんな理由があるけれど、一番の理由はやっぱり、邪魔にならないこと、か。



羨ましいと、一瞬でも思ってしまったらオレは止まれなくなる。




泉の指が優しく頭の腕を撫でていった。
それは本当に優しい手つきで、これ以上安堵感をもたらしてくれるものを、オレは知らない。
ホントはそう、全部捨ててしまえたらと思っているんだろう、心の奥では。



自分の脆さは自分でよくわかっている、自分の限界も臨界点も。
じき崩れ落ちる寸前までは、虚勢を張り続けていなければ崩壊は早まるばかりで。
もう、意地なんだろう。
あとに退けないところまで来てしまっているから。

膝に預けた頭が沈み込んでも、どれだけ緩やかな風が頬を撫でても、睡魔は現れない。
ぼんやりとした眼を向ければ、彼はいつでも微笑ってくれる。
オレしか知らないような本当に優しい笑顔で、甘えても甘えても、絶対に離れていかない彼が。



「―――寝れそうか?」

「…んーん、全然眠くない。」

「…そう、何日くらい寝てねぇの?」

「わかんね、前一緒に寝てからくらいかなぁ…。」

「2週間か、また家来るか?」

「んー…考えとく。」



くたびれたような笑顔しか向けれなくて、本当にゴメン。
意図が伝わってしまったのだろうか、泉は手を止めて、悲しそうな笑顔を浮かべる。
オレなんかがいなければ、泉はこんな悲しい顔をすることもなかっただろうに。
そんな断片的な意志でさえ泉は汲み取ってしまう、いつもいつもそうだ。






「オレは、お前に会えて幸せだよ。」

「…嘘、泉の馬鹿。」





絶対そんなわけがないのに。
眠れない夜を付き合わせて、崩壊しそうになる暴走を止めさせて。
オレに付き合わせていたら眠れない、傷をつけるばかり。
ひどいときは何をした?大事な聞き腕がしばらく使えなくなるほどの怪我を負わせているのに。
幸せだなんて、嘘だ。

だけど、泉が嘘をつくわけがない、泉は、オレに嘘はつかない。
絶対に、いつでも、笑ってくれる。
そんなにいい奴をオレは独り占めにして、それどころか傷つけている。
どんどん傲慢になっていく、成長に連れる重い罪。
そうして力を失っていくんだろう、右目が霞む老ける罰。
欲しいと願ったばかりに、どんどん失っていく。
望めば手に入る海は、所詮小さな海岸でしかなかったのに。


授業の始まり5分前を告げる予鈴が鳴り始めた、そろそろ教室に帰らなくてはいけない。
名残惜しい膝に一度すり寄って、重い体を浮かした。
右が霞むのはもう一度や二度のことではないから意識もなく、先に立ちあがった泉の手に引かれて立ち上がる。
不思議とせがまない彼とは、もちろん恋人らしい手のつなぎ方なんてしたことない。
ただ握り合うだけでいいんだろうか?
いつしか奪われることしか知らなくなっていたオレには、泉の接し方はただただ、不思議なだけだった。
屋上の重い扉を開けて、ほんの数段の階段を降りる。
休憩が終わる直前の廊下は騒がしいのに、ほとんどの喧騒は留まりもせずに右から左。
3年になってから、屋上から教室への移動が随分楽になった。
その分、帰りには嫌というほどの苦痛を、味わうことになってしまったのだけど。
屋上から一番奥の教室に、オレ達は帰る。
屋上から一番手前の教室の窓際に、花井がいる。
直前で泉の手は離れ、少し距離を置いて歩いていく背を見て、それから少しだけ、その教室をのぞき込むのが日課だった。

今日もまた、オレの知らないところでは笑っている。
隣にいるのは阿部だったり、三橋だったり、―――知らない女の子だったり。
今日は女の子だった、いつもと同じ、女の子。
たくさんいるのに彼女だけ、席?他にも何か理由が?
背は、女の子にしては少し高いくらいか、小顔が引き立つ身長で。
―――可愛いんだろうな、花井の目には。花井は背が高いから。
オレと同じくらいの身長、少し釣り眼気味で、控えめに散らされたそばかす。



大きく燻ぶる嫉妬心、あの隣にいるのがオレだったら――――。



途端にぐらりと揺れる心臓、あまりに大きな圧迫感に、俯いて心臓を掴む。
爪が食い込むのも気にせずに服の上から揺さぶって、落ち着かない心。
教室を通り過ぎても胸が痛くて、前を行く泉が、時折心配そうな様子で振り返った。
廊下では絶対に、お互い声をかけない。
泉は声をかけ合えばそれだけで花井を煽るような恐怖を、分かってくれているから。
どんなにオレがおかしくなりそうでも、その制約を、泉はただ守ってくれた。
ようやく教室に辿り着いたころには、少し、落ち着くことが出来ていて。

ゴメン、と必死な顔で言う泉が、違うよ、オレが悪いんだ。

ふるふると首を振っているうちに次の授業の先生が入ってきて、会話は中断された。
未だに辛そうな顔をした泉を押すように席に向かわせて、オレも自分の席に戻った。
前は、栄口。
授業中にまで迷惑をかけれないから、泉とは出席番号も離れていてよかった。
かわりに栄口はよく構ってくれる、本当はそんなに余裕がないんだろうに。

同じような、心をしているからだろうか?

とはいえ普段の彼は相当、落ち着いているのだけど。
それはやっぱり水谷のおかげだろうか?彼も一頃はひどかったが、今はそうでもない。
栄口が前にいてくれれば、泉は授業中までオレを気にしなくてすむ。
束の間だけど、せめて安らいでいてくれたら、と思って。



「また屋上?」

「―――あぁうん、そう。」

「顔色悪い、ね、花井また何かしたの?」

「違ぇよ、オレが悪いだけだから…。」

「なんかあったらいいなよ?ちゃんと、オレは今全然元気だし。」

「わかってるよ、頼りにしてるって。」

「…そう…?ホントにそうなら、ちゃんと頼ってね。」



授業の始りに合わせて、栄口は前に向き直った。
嘘もいいとこだよな、頼る気なんてホントは、全然ないくせに。
栄口は本当にいい奴、優しい性格で、だからこそ脆いこともオレは知っている。
自分の状態が良くも悪くも関係なく、自分を演じ切るためなら多少の無茶はやってのける。
多少、どころの騒ぎじゃない。演じ切るために、無茶以上のことを平然と。
オレには栄口の無茶は見抜けない、なら、初めから寄りかからないほうがいい。
無茶をさせてしまったら、オレは水谷にも怨まれて―――。
う、と吐き気を堪える。



嫌いと思われるのは嫌だ、誰だってそう。
水谷はそんな奴じゃないの、わかってるけど。
一度ギシンアンキに取りつかれたら、一度も譲れないままでいるしかない。

嫌い、嫌いだと浴びせられる言葉は、もう花井のだけで十分なんだ。

これ以上増えてしまったら、ホントに―――。
ここを捨てて行ってしまえれば、本当に楽なんだろうな。
それでもオレはここで生きていて、馬鹿だろう、そう、馬鹿。
一瞬を望んでしまったせいで、あとに待っているのは、もう空白ばかり。
違うか、空白は。
傷、か?そんな馬鹿な、オレは傷ついたなんて思ったらいけないんだ。
生まれ落ちたのも罪なら、今生き残っていることも、罰。



自分で自分を追い詰めていること、知っててこうして。
自虐趣味じゃないけど、そうしていないといけないような、そんな気がして。
いわれない運命だ、身動きも出来ない。
眠くはないけどうつ伏せる、疲れていても眠れないから、体の疲労はとっくに限界を超えてる。
いつも鉛みたいに体は重いし、それでもよく動けているほうだ。
未だにオレの背に4はあるし、今年の体力測定も、1番を取ってやるつもり。

じきそういうことが出来なくなるんだ、大人になれば、こんなこと。
なる前には、もう―――。





はっ、として顔をあげたら、もうすぐ授業は終わるというところだった。
寝ていたわけではないらしい、寝起きの倦怠感はないし、さっきと同じように体は重い。
単にぼうっとしていただけだろうか、最近は時間の流れすらもどこか遠くにあるような気がして仕方がない。
同じ流れの上からは逸れてしまっているような。

もう一時間で、部活。
グラウンドに行けば嫌でも目に入る姿、肌が泡立つ。
少しでも眠れたら、心も徐々に落ち着くはずなのに。
ありがたいことは、廊下を見ても決して花井は通らないことだろう。
一番端の教室に用事なんて、今のところはない。
ただ一つ不安なことは栄口、副主将の彼には用事はあるかもしれないんだ。

会いたい、でも会いたくない。

安心しろ、来るはずがない。
オレの視界に映るリスクを選ぶなら、業務で終わらせられる部活まで話さずにいるだろう。
急ぎの用事なら向こうには打ってつけの副主将もいる、わざわざここへは来ない。

授業の終わりを告げるチャイム、いつものように号令。
野球部の間では陰湿な関係を知らない人間はいないが、教室の中ではまた別だ。
オレはこうして衰弱していきながらも、まだ元気な振りをしてクラスメイトと接している。
面倒な時は寝たふりをしてやり過ごすなりしていれば、栄口がフォローしてくれた。
そういうとこくらいなら、迷惑にはならない?
ほんのちょっとなら、という甘え。





「―――田島寝てんの?」

「そうみたい、水谷がいたらうるさくしちゃうだろ、席戻ってくんない?」

「ひっどい栄口!オレ静かに出来るよ〜!」

「もう十分うるさい。」





あ、いけね。
がばっと頭を上げた。





「寝てねーよ!この通り!!」

「おわぁっ!びっくりした、いきなり動くなよぅ。」

「悪ぃ悪ぃ、へへ、ごめんな、オレ泉のほう行ってくっから!」

「あっ、田島!」





栄口が制止の声をかけるけど、オレは一度笑ってから逃げるように席を立った。
ダメだダメだ、こんな至近距離であんなに仲睦まじい姿を見てしまったら、落ち着くどころの騒ぎじゃない。
背後でばしっ、とすごい音がして、水谷が悲鳴を上げている。

馬鹿、オレが巻き込んでんだぞ。
こんな小さなことで二人のことで二人に火がついてしまったら、死んでしまいそうだ。

そう遠くない泉の席まで走っていけば、泉は顔を上げてオレを待っていてくれたらしい。
すぐ心配そうな顔を向けて、オレの手をぎゅっと握る。
部活中でさえ冷え切っている、オレの指先。
そんなものに触れていたら、泉の温かい指まで温もりを失ってしまうんじゃないか。



「大丈夫か?」

「へーき、見てらんなくて逃げてきただけだからさ!」

「そりゃ大丈夫って言わねぇだろ…。」



大丈夫だ、今はほら、泉がいる。
荒れそうになる心を、じっくりと落ち着かせていった。



「ん、ホントにもう平気。」

「…ホントかよ。」

「ホント、泉の顔見てたらすぐ落ち着く。」



に、と笑った。
泉の前ではいつも覇気のない残念な笑顔しか浮かべられないのだけど。
その笑顔はいつも、泉の顔を曇らせてしまう。
オレは、笑顔も下手になっちゃったんだなぁ。

どんどんどんどん奪われていくのに、忘れられないんだな。
どうせならこの気持ちも、奪ってくれたらいいのに。

嫌だ、好きなのに、忘れなきゃいけないのか?
それは、嫌。

それはもう、手首を切りつけるのと、同じような価値観。
リストカッターの唱える、生への証。
生きている、実感。
この気持ちがなくなるのは怖い。


不穏な気持ちはすぐに泉にばれてしまう、手を握る力が少し、強くなった。
また考えに没頭してしまったらしい。
に、と笑っても、今度は怒っているような眼でしか見てこない。
あぁ、少し呆れられたんだろうか。



「さっきさ、寝れそうだった?」

「え?や、全然?寝てたというより、ぼんやりしてただけ。」

「…水谷のせいで起こされたんなら、どかそうかと思ったんだが…。」

「いいよ!二人の邪魔したくねぇの!!」

「寝なくて平気か…?」

「寝んのは怖いよ、泉がいなきゃオレ、寝れないよ。」

「やっぱ今日、家来いよ、もうそろそろ寝ねーとヤバいだろ。」

「…ん、行く。」



泉の家は、オレの家に比べれば相当遠い。
それも、途中までは花井と一緒だ。
沖も途中までは一緒、だから花井も泉もいがみ合わない。
でもオレがいたらそうはいかないだろう、あとから追いつくとか、考えておかないと。
オレのせいで、花井と泉も、相当仲が悪い。
間に挟まれた沖は気が弱いから二人も気を使っているらしいけど。

花井は、オレなんかの肩を持つ泉が気に食わないんだろうな、とか。
泉は、花井がいなかったら―――。

花井がいなかったら、絶対、泉のとこに行ってたさ。


授業開始のチャイム、泉が今度は微笑ってくれたから、オレも精一杯笑い返して席に戻った。
その先で栄口が謝ってくるから、気にすんなよ、とだけ告げて。



あと一時間すれば、部活が始まる。








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もうなんか、田島がいい加減不幸すぎるか?
水谷が空気を読めないのは今さらです。
ちなみに栄口もちょっと病んでる仕様です、これはあれです。眩暈も〜とのリンクで。
普通は女の子がする側ですが、彼らの膝枕は田島がされる側です。
ちなみに私はコミックス派だったので、10巻〜2008年7月号までの空白期間を知りません。
なので、この期間に田島が実はこの試合打ってないんだぜ!!的なものがあったら…これもう書きなおしじゃない?(ぁ