普段と何も変化もない動作に、その奥のわだかまりに気づくことができなかった。
この金糸は確かに、父親と母親に連なる心の強さを持っていたからだろう。
胸の内の弱さも見せず。
泣き言は笑いに変えてみせる。
図らずとも大きな痛みはあるはずなのに、その辛さをおくびにも出さない。
笑っている、彼は。笑っているのに、その心は深く沈んでいるように思えた。
自惚れなのかもしれない、愛されていると勘違いした、身勝手な考えなのかもしれない。
世間一般的に言う、両思い、というやつなのだと、思っていたはずだった。
少なくとも、僕は。
それは、父親の面影を追っていたことにもなる、それ自体は否定しない。
僕は確かにこの金糸に父親の影を追い求め、その贖罪として手を差し伸べてきたのだから。
隠し通せるとも思ってはいなかった。世の中はそんなに単純ではない。
ありえない奇跡から再びこの世に出でた、この裏切り者の存在に、いつかは誰かが気づくだろう。
正史にはありえない事象が、いつかひずみを起こしていくように。
そして、いざその時が訪れたとき、僕の心は挫けなかった。
少なくとも、僕の心は。
回りが僕を裏切り者と罵ろうが、今の僕は海底に沈んだあの時のままではないのだから。
大層な名前だと思う。
無意識の判断だったのだろうか、それを図る術はない。
裏切り者の名前を受け入れてなお、今度こそは守りたいと思ったから。
彼の意図を感じることは必要ではない、ただそれを甘んじて受け入れられることがすべてなのだから。
もういない、彼の父親のために。
18年越しの思いを守るために。
なのに、今の僕は一体何をしているんだろう?
偽りのように愛し、裏切り者と告げ、一番虚しい事としていた、彼の父親と重ねて見て。
そっくりなその背に思いを寄せたとて、それはもはや彼ではない。
わかっていて、なお。
傷つけて、傷つけて。
それで僕は結局、守れていることになるのか?
そんなはずはない。
確かに傷つき、暗い思いに耽っていることは当然だっただろう。
どんなに普段、笑顔を見せていようとも、他愛なく言葉を紡ごうとも。
その先の痛々しいまでの思いに、気づけないほど僕は愚かではない。
少なからず、僕だけではなく皆も気づいているだろう。
もう一人の聖女が告げた真実の果てに、この金糸に待ち受けていたことが何か、それがどれだけ彼を傷つけることか。
公認、という関係だったわけではないが。
それでも彼は、今日も笑っている。
視界を埋める、真っ白な雪を背に魅せながら。
*
夜は吹雪く風の音以外、静かなものだった。
ラディスロウがどれほどの強度で音を遮断しているのか、さすがに推測こそ出来ないものの、轟々と鳴る吹雪の音が聞こえるということは、音の遮断は大したものではないのだろう。
人工的に作られた雲の上にはダイクロフトの巨大な姿があるのだろうが、雲間が一度でも開くということはない。
1000年後ともなれば、さすがの天才の発明にもガタがきているというが、出来たばかりの今頃、不調が起きるというわけではない。
作戦を目前にしていても、兵士達の警戒が解かれることはない。
いつ奇襲があるともしれない、いつ何が起こるかわからない。戦争の鉄則である。
その一角に、急ぎ足で通り歩く漆黒の姿があった。
何かを探すようにあちらこちらへと鋭い視線を向けては、苛ただしげに舌を打つ。
何かを探しているのは、どうやら彼だけでもないらしく、風鳴りのする艦内に女性特有の足音が響いているのも確かだった。
夜だから、声を出すことは憚られるのだろう。
薄桃色のフリルがゆれながら、その軌跡を追うように赤いリボンが続く。
甲高いブーツの音が響いたその後、赤く染まった長い髪が二筋揺れているのも見える。
また階段の上からは背の高い男の影があり、薄い白光に照らされた銀色の髪が忙しなく揺れている。
一様に何かを探すように、慌てた顔で聞き込んでみたりするが、それぞれ落胆の表情でその場を離れるくらいである。
予想の範疇だったといえば、皆がそれほど慌てていない理由にもなるだろうか。
彼らの探し物は、今の時間なら当然寝ているはずのカイルだった。
それも数刻前まで、彼は確かに宛がわれた部屋のベッドで寝息を立てていたのだから。
作戦まで数日を切っている今、慌しい艦内ではやることも多いが、居候たる彼らに出来るのは民間人の世話や食事の配給、夜中にすることはない。
部屋で寝ていればよかったのだが、彼らには議題があり、放置するのも憚られた内容だったから、部屋を少し外し、話し合いに臨んでいた。
カイルがそれに参加しないのは必然であり、加えるべきでもない。
議題の中心たるはカイルで、大方それはジューダスへの叱責に終わっていた。
ここ数日、自然に笑うカイルの姿に違和感があったことは全員気づいているし、新参者のハロルドでさえ、ぎくしゃくしたものがあるというのだから、それは相当なものである。
カイルは賢い。
知っていることは確かに少ないし、本人も勉強は嫌いだという。
それでも彼は賢かったし、強かった。
本当に必要な場面で自分を抑える術を心得ていたし、自然に微笑める術を持っていた。
人の心の動きに機敏(恋愛ごとにはそれでも疎いのだろうが)であるし、無意識下で善悪の判別をやってのける。
それはこの長い旅路の間に身に付けてきたものなのだろう。
それだけの彼が、微笑めない理由。
今更語るまでもない。
皆からの怒声を一心に受けたジューダスは、ただ一言そう告げた。
その思いの先を考えることは、誰にも出来なかった。
話は膠着してしまい、仕方なく部屋に帰った全員は驚いた。
ベッドの上で毛布に丸まっていたカイルの姿が、忽然として消えていたからである。
部屋を出ていたとはいえ、それはほんの数分、それもそう距離は離れていない場所で、いかに話し合いに興じていたとはいえ、気づけないものではなかったからだ。
そして今に至る。
さすがに作戦前でピリピリしているソーディアンマスター達の部屋に押しかけてまで所在を尋ねるわけにもいかないし、それでもカイルは見つからない。不安は募るばかりで、解決に向かう気配は一向になかった。ハロルドにも協力してもらい、総出で探してはいるが、その姿を追うことは出来なかった。
焦りに彩られた顔で、ジューダスはまた自分を叱責することしか出来なかった。
してきたことは否定しない、甘んじて受け入れることだったが。
いざ、こういう局面になると、信じられないくらいに動転してしまう自分がいた。
こうなることは予想できていたし、そう、冷静に受け入れられると思っていた。あの時は挫けなかったのだから。
それがどうだ、今、自分はどうなっている。
額に伝う汗の意味さえ、理解することができなかった。
「ジューダス、そっちはどう!?」
「…いや、だれも見ていないらしい。」
「…そう…どこに行っちゃったんだろう…カイル…。」
本来ならば、放っておけばいいことだろう。
心配したところで、何ができるのだろうか。
傷つけたのは自分自身だし、側にいないほうがいいのでは、と思う。
しかしそんな責任放棄をするわけにも行かず、だらだらとその背を追い続けているわけだが。
追いかけたところで何も出来なくても、探さずにはいられない。
立ち止まったところで、胸を打つ痛みは止まりはしない。
ジューダスの顔が、痛みに耐えるように歪む。
リアラはそれを一度心配そうに見つめてはみたが、その原因が彼自身にあることを理解している。
手を差し出すこともなく、その表情に憂いを湛えたまま静止していた。風の鳴く声が響く。
「とにかく、もっとよく探しましょうか…いくらカイルでも、外に出ているとは考えられないし…。」
「いや、可能性は捨て切れんだろう。雪合戦を持ちかけてくるような奴だからな…。」
「もう少し中を見て、外ならロニに頼みましょう、一番適応が早かったし…。」
「僕も行く、待っていられない。」
会話を終えると、すぐさま背を向けて歩き始める。
探していないところはまだあるはずだと、その背は語るようで。
リアラは嘆息した、何を考えているのか、さっぱりわからないとでも言いたげな。
嫌悪感ではないし、信頼もしているだろう。
しかし、時折彼の行動の深さに浅はかな自分がついていけないこともある。
ストレイライズ大神殿の知識の塔で目一杯知識を詰め込んできたが、なかなかどうして、彼には遠く及ばない。
18年前のことに関しては、実際体験しているだけに、リアラが口を挟める部分はなかった。
ジューダスは、知識をひけらかしているわけではないし、鼻に掛けているわけでもない。
それでも時々、その深さに薄ら寒いものを感じた。
それとともに、嫉妬、という類の感情も。
すべては彼の裏切りに直結することで、すべての行動が贖罪に繋がることも理解はしていた。
それでも勘繰らずにいられないのは、やはりリアラ自身、妬んでいるからだろう。
これもまた、浅ましいことだとは思うけれど。
妬まずにはいられない、リアラはカイルが好きだったから。
ラディスロウの中は、安定して暖かい。
リアラが薄着でいても、艦内にいるうちは寒さを感じることはなかった。
しかし、今心に立ち込めてるのは、確かな寒さだろう。
このまま、カイルがいなくなってしまうかもしれない、そういう、漠然とした不安。
揺れ動く漆黒のマントを消えるまで見送って、リアラはもう一度、深くため息をついた。
それから背中の赤いリボンごとくるりと回ると、まだ自分が目の付けていないであろう部屋に向けて歩き始めた。
せめて、ジューダスよりも先に見つけてあげたい。
「リアラ、どうだい?カイルは…。」
「ナナリー、うぅん…やっぱり見つからないわ。さっきジューダスと、外も視野にいれるべきじゃないかって話をしていたところ。」
「やっぱり外か…あんまり考えたくないけど、可能性としては、一番ありえるよね。これだけ探して出てこないんだからさ…。」
踵を返した直後、通路の先に見えた赤いツインテール、ナナリーが視界に入り、同じく彼女も視界に入ったのか、リアラの傍に寄ってくる。
彼女もリアラ同様に薄着だが、ラディスロウの中の暖かな空気も、彼女にとっては少し寒いらしい。
常に露出した部分をさすっているのが見てわかる。
ナナリーの表情は、心配そのものだった。
死んだ弟とそう年の変わらないカイル、どこか弟のように構ってしまう部分がないとは言い切れない故に、ナナリーはカイルをよく気にかける。
これでいてこのメンバーはしっかりした者が多いが、カイルはまだまだ少年。
そして、彼女らもまた、幼い。
自分のことはできても、人まで気を配るということは早々出来ないことが多い。
そんな中でもナナリーはよくカイルを気にかけていた。
肝っ玉の据わった母親のような手触りで。
「外だと、やっぱりあのスケベに頼むしかないね、あたしはとてもじゃないけど、凍死しちゃうし…。」
「ジューダスも一緒に行ってくれるみたいだから、二人に任せていいと思うわ…私たちみたいに、雪に慣れていない人間が行ったところで、何もできないから…。」
リアラの顔は落胆する。
外が暖かければ、彼女は真っ先に外へと走っただろう。
彼女にとってのカイルは、それほどまでに大きい英雄だったのだから。
別のところを当たってみるというリアラと分かれたナナリーは、なかなかその場から動き出すことが出来なかった。
自分の年にして、28年前の出来事ならば知っている。
聞いたことはある。
時代の変革が進んでしまった時代だったが故に、あまり知られていたことではないが、それでも一応、知っていた。
顛末も、裏切り者のことも。
それがジューダスだと知ったときは、ナナリーは特に気にすることはなかった。
いくら以前大罪を犯していようとも、その彼は今、必死に何かを救おうとしているのだ、責め立てる権利はない。
それでも、今回のことに関してナナリーは怒っていた、稀に見るほど、静かに。
ルーを失ったナナリーにとって、カイルは弟のように眩しい存在だった。
愛しているといえば語弊があるが、家族を見るような、暖かな目で彼を好きでいた。
無邪気に笑めば誉めてやりたくなるし、愛故に怒ってやりたくなることもある。
その彼をジューダスが傷つけて、今こうしてこの状況ならば、当然のように怒りの矛先はジューダスへ向いた。
そもそも、愛している人間をどうして傷つけられる?
ナナリーにとっては凄まじい葛藤だった、ジューダスのしていることに、カイルへの愛情を感じられなかったから。
嘆息を漏らす、自分が悩んだところでどうしようもないことはわかっていた。
自分はジューダスでも、カイルでもない、悩むのは彼らであって、手を差し伸べることさえ出来ないかもしれない。
だからこそ嘆息するしかなかった、轟々と鳴る壁に、火照る手のひらをつけながら。
ハロルドがそんなナナリーの姿を見つけたとき、声をかけることに小さな迷いを感じた。
即日実行が彼女のモットーでありながら、どうしてか、それが出来なかった。
深い怒りを感じて、躊躇ってしまった。
「ナナリー。」
「…ん?あ、ハロルド、そっちはどう?見つかった?」
「いいえ、見つからないわねぇ…かくれんぼが得意なのはいいけど、大概にしてほしいものだわ。」
「そうだね…ハロルド、寝不足は大丈夫なのかい?ここ数日立て込んでたのに。」
「いーのよ、私、普段からほとんど寝ないから。」
短い会話を交わして、ナナリーはここを離れていく。
弟を思う姉の姿か、ハロルドは小さく零した。
彼らと出会って実質一週間も経っていない彼女としては、よく事情が飲み込めていなかった。
彼女なりの結論は、ジューダスとカイルの痴話喧嘩、というものにしかたどり着かない。
裏切りだ、なんだ、という話は大体推測できた。
だが、それでもカイルが落ち込む理由にまでは干渉できなかった、あくまで推測の域に過ぎない。
自分の知らないところで面白いうことが起きている。
それだけはわかる、置いてけぼりな感があるのは仕方がない。
彼らとは1000年と、18年の差がある。
これは埋めようがない。
だからこそ推測に推測を重ねて、なんとかしてはいるものの、如何せん、自分は恋愛ごとには疎いらしい。
傍観に徹するしかなさそうだ、今はそうとしか言えない自分が、なんとなく腹ただしいけれど、何も出来ないから。
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